初日。
はぁぁ…きちぃぃ…
誰も彼も弱くて。無力で。
誰も責めることはできないって分かってるのに、みんなちょっとずつ自分を責めたり、そこから逃れようともがいたり(言葉に出してそれを誰かに喋るのはその行動だと思うよ)。
こんな不幸なことになっちゃってる状況をなんとかしたくて、それは思いやりだったりエゴだったりもして、いずれにしても全然うまくいかなくて。
ポケットのレンガ
これを思うことって救いになるのかなぁ?
あの子は、事故のこと以前から何かを抱えながら生きてる子なんだなって思ったよ。
『手紙』もちょっと思い出した。
これどうやってラストになるんだろと思ってたら、思いのほか納得できて。
目の前のタスクを片付けていくっていうの、わかるよ。
手元にチケがある芝居をとりあえず観に行かなきゃって、結構力になるよ。日常を続けるという力。
役者みんな最高だった。
女性陣がエマさんとケイトさんとビアさんだったから、悲壮感や湿っぽさではなくむしろ普通な日常のめんどくささとか煩わしさとかが感じられて、リアルだったと思う。いちばん湿っぽいの成河さんのハウイーよね。
あ、母親と父親の悲しみ方の形を無意識に逆だと思ってたことには気づかされたなぁ。
開幕の記事でケイトさんが言ってる「ここまで言葉にこだわった分、生の舞台でなければ成立しない。その場に本当に感じていないと(台詞を)言えない」ってなるほどなーと思う。
リアルな日本語の現代口語で喋ってるから、特に成河さんなんかは普通に日本人だと感じられて、違う違うこの人そう言えばハウイーだ…とか思ったりね。やっぱ日本語を喋ってる身体は日本人に見えるんだわ。そこにチグハグさが生じるっていうのは逆にまた新たな問題点では?
こんだけ言葉にしてぶつけ合ったり違和感を表現するっていうのは、設定が日本・日本人だったらたぶん無いんだけど。
てか、逆に、日本人の(俳優本人の)身体で喋ってるからナチュラルな日本語として入ってくるのかな。
いずれにしても、"俳優本人の身体"という要素がすごく大きいことになる。今回のも何だかんだ言って、エマさんとケイトさんとビアさんの外見が作品成立の助けになってることは否めないよな。ハウイーや少年はもしかしてアジア系アメリカ人だってことにすればいいのかしら、とか。
ちょっとキツくて、正直あぁこれ1回で良かったかなーって途中まで思ってたんだけど、ラストがわりと好きだったのかな、楽日近くにもっかい観るのも良いなと考え直した。
あんな悲しみ、絶対に消えない。
誰かに癒やされるなんてことも絶対にない。
その中で生きるだけ。ひとりで。
同じようにひとりでそうやって生きている人が隣にいるベッカは、ハウイーは、時々それが助けになることもきっとあるけど。
ひとりで歩かないと、たぶんそのことにも気づけない。
苦しいよねぇ生きるのって。
苦しくて思わず手を伸ばしたら同じように伸ばされている手が隣にあって、互いに握り合える瞬間が、たまにあったら。
こんな悲しみにはね、近寄るの怖いのよ。こんなの存在しないって思っていたい。でも勿論この世界にはこういう悲しみが存在するということは知ってるんだけど。そんなこと思い出さずにいたい。
このラビットホールは私のパラレルワールドかもしれないなんて思うとゾッとしてしまう。そんなふうにゾッとすることって必要なことなのかな?演劇はわりとそれを迫ってくるけどね。まぁ、みんながそう思ってたら優しい世界になるよってことか。
すごく個人的に、それこそ井戸の底に入り込んでいくような観後感になるからな、だから成河さん敢えて訳語とかのことしか言わないのかもしれない。観た人が個々に沈み込むことの邪魔とか助けとかしたくないんじゃないかな。
いわゆる悲劇の中にどうしても日常があるっていうのが絶望的にめんどくさくて嫌な気がする。人間の最大の弱点は腹が減ることよ。生活しなければならない。すごい悲しみの中にいる時でも、芝居と違って現実ではもっともっと煩わしい日常があるだろう。悲劇に似つかわしくない場面がたくさんあるだろう。そういう中でだんだん、悲しみはポケットのレンガくらいになっていくのかな。
あゝパンフ興味深い話がたくさんだわ。
創志くんのAnd then,〜の話とか!
藤田淳志さんの、映画より舞台演劇の方が観客は距離を置いて見ることができるっていうのもほぉ〜と思った。