へぇ、"信じる力"を、意外と肯定してるんだな。
現実世界には物語なんて無い、原因と出来事だけ、と思いたいけど。
誰かの物語に巻き込まれるだけだなんてたまったもんじゃない。
どーしょーもない欲求、欲望、当然だと思っていること、の強さ。
それが食い違うから人間関係は難しいんだなってこと。
浜田さん森魚は異様なパワーを持ってる人と見せ掛けて実はただの旧来価値観ガチガチな煩悩野郎だった。でも強いんだよ、こういう疑いも持っていない感じが。だから社会はそうそう変わらない。
安井さん真壁の醸し出してた負のエネルギーは凄かったな。「間違えないで…」という悔恨の陰鬱さ。
ドミノってつまり世の中の大局とはこのように形成されますってことでしょ。マジョリティとかインフルエンサーとか。まさしくドミノが倒れるようにみんながそれになびいていく。
あー、盛さん土呂はなんであんなにも森魚に"友情"を言葉にして欲しがるのかなーって思った。そんなん全然当てにならないじゃん!そんなものに縋る憐れさ。
人の想いで物事や世の中が動いていくと考えるのってすごく負担の掛かることだよ。常に、何かが足りなかったんじゃないかとかもっと違うようにできたんじゃないかとか、後悔ばかりになってしまうじゃん。人が死んだのは「ただ死んだ」って思える方がよっぽど楽だよ。
意味を見つけ過ぎちゃうのとか物語に囚われてしまうのってとてもめんどくせぇ。
てか、物語の書き手にならないといけない責任って負いきれないよね、人生においては。どうにもならんことがあるくらいでちょうどいいと思っちゃう。
世の中で起きているあらゆることの責任が自分にあるなんてムリムリムリ。
それこそ「間違えないように」することが苦しくなっちゃうと思う。
そういう、自分で決定することへの怖さ…あるな。
誰か/何かのせいにしてた方が、仕方ないと思えた方が、結果、気が楽。
良心と本心は違う、とか言ってたけど、そんなんいちいち自分で意識せざるを得ないの苦しいだろー。
真ん中の低くなった四角形の中、吸い込まれそうな真っ黒で"無"って感じだった。その中に森魚がいて他の人たちが周りの椅子に座って見ている感じはまさに主役と傍観者。
四角形の内外、すりガラスのような衝立(陰に居る人の足は見えてる。衝立の向こうで大勢がゴニョゴニョ蠢いてる時もあったな)で表されている様々な時空や意識レベル?
人の想いなんて所詮他の誰にもわからない。
それはそうだと思う。
言葉を尽くして伝えたとしても、言葉になった時点でそれは既に想いそのものではなくなっている、その想いに既存の言葉を何とか当てはめたものに過ぎない。
と言うか、そもそも言葉になる以前の想いは、言葉になっていないから本人にも認識できないってことだよな。
言葉にされた時点で既に想いそのものではなくなっている、それが他人に伝えられた時、そこには更に受け取った人の解釈だって挟まるから、元々の想いとの乖離はもっと大きくなる。
もちろん言葉は本心を隠すことにだって使えるし。
あゝ…言葉への懐疑。
観劇感想を文章にすることで綺麗に箱に納めちゃったような気がする感覚、あるもんね。
感情って意外と物理で出来ているので何も無いところに想いを向けるのは難しいから門(墓)を…という『旅と渓谷』の台詞も思い出す。ってことは、具体的なもの・目に見えるものへ向ける想いの方が強くなる傾向にあると言える?
てか、言葉というもの自体が物理か!
我々は自分の想い・感情さえ言葉を介してしか認識できていないのだ。
でもやっぱり言葉にしないと覚えておけないから言葉にするんだわ。
覚えておけないくらいなんだったら忘れちゃったって別にいいじゃんねという気持ちに一瞬なるけど、いやいやいやそんなにも自分を把握できない、自分のことがわからないってやっぱ怖い。
澤村さんと大野先生が何か希望めいた後味を残そうとするけど、やっぱり私は「社会が変わるのって無理過ぎ〜」という絶望感の方を強く感じてしまうよ。