J’aime le théâtre♡

観劇日記。

『エリザベート』11/3ソワレ

今日もB席から。今期はこれで観納めかな。花古固定で2回だったけど自分なりに咀嚼できてる満足感があるし、ルキとフランツは4人とも観れたし甲斐ルドも目撃できたし。ちゃぴ育はきっとまたいつか観れるでしょう。

 

がんばれって思ったの「愛と死の輪舞」の時だったわ。♪俺は今踏み出す〜ってとこからめっちゃ生き生きした少年ぽくなるの!

「最後のダンス」はもうシシィ本人の前だから泰然としてるもんね。ロンドの様子を見た後だと、がんばってんなーと思えちゃうけど。

 

シュガちゃん凄い!執務室であんなに歌詞がしっかり聴こえてきたの初めてだ。感動。

ハンガリーに来てくれって言うところ(ガウン姿お気に入りらしいw)からしっかり年齢を重ねてる。新婚時まではとっても若々しくて可愛い。婚礼でTDと踊るとこ、あれ?何か変だな?って感じがなんか可愛くて可笑しくてちょっと笑っちゃったよ。あれあれー?って踊りながら捌けて行ったのとかw

見た目の貫禄や気品もあるけど、発声や歌唱技術において圧倒的で安定していて余裕すら感じさせる(ですよねぇバルジャンだもんね)のが、なんかすごく"皇帝"なんだわ。僕ふつうにこれできちゃうんだよねみんなとレベチなんだよねっていうのが嫌味も無くて、観客は歌声に酔いながらあぁ神に選ばれし皇帝なんだなって納得しちゃう。

寛容で善意の名君と呼ばれることを願った、ただシシィを愛していた、いや、でもそれも皇帝として皇后を愛していたのかもしれないな。皇帝ではないフランツ(個人)なんてたぶんどこにもいないんだよな。彼はシシィと違ってそんなもの求めもしなかったしあり得るとも思わなかった。まぁでも「あなたが側にいれば」で歌っていた言葉から見ると、生まれてこの方考えたこともないという訳ではなくどこかで諦めたんだな。遥か遠い昔幼少時かもしれない。

自由を求め続けた、自由を求め続けることが即ち生きる意味だったシシィとは完全に平行線。

 

ヒャッ!HASSでみんなの隊列が鉤十字になってるの初めて気づいた😨

 

旅するシシィのとこもシュガンツの明瞭な歌詞で話がよく分かる。

悪夢も!

悪夢で泣きそうになっちゃったよ😢

ここでとうとうフランツにもトートの姿が見えた。帝国の死が迫っていた。

 

シシィの物語であり、ハプスブルク帝国の滅亡の物語であり、人が作ったもの(体制とか国とか)はいつか亡ぶし人は死ぬものだよねっていう話なんだなと思ったわ。

シシィの物語の背後と言うか並行で、歴史というか社会のどうしようもない流れ("潮流"だな)が、どちらもトートの存在がチラつく形で見えて(キーパーソンはトートの姿で顕れTDたちも手伝ってる)、歴史は摂理≒un grande amore…人はいつか死ぬ、人が作ったものは、国だって、いつか滅びる、だから「俺だけに」って言ってんのに人間は理解できないの?ってトートには逆にわけわかんない。何なん?この最後まで「私だけに」と言って死んだ女は?って感じだよね。

 

花シシィの、頑なさにドスが効いてるとこが随所にあって好きだな。ラストの「泣いた笑った」のとこもそうだった。

 

もっとトートとシシィがシンクロして見える作りもあると思うしそれも面白いと思う。そう見えるキャスト組合せもあるかもね。

 

ゆんトート大好きになっちゃった❤️なんつったって美しい。ダンスも綺麗。

ルドの前に「死にたいのか?」って現れた時やキスした後の後ろ姿の冷たさ、ゾクゾクする。

いつもそっと忍び寄り気がつけば傍に居る、しかも甘美な死その造形として完璧。

カテコの時はあんなに可愛らしく謙虚な感じに見えるのにね!

 

「愛されたい」ってあんなに生き生きキラキラし始めるの、そっか、死は人から愛されることないもんな。シシィにはトートの姿が見える。死を想う素質がある。

 

あぁでもシシィは死を愛したのではなく、死を恐れていなかっただけか。

自由を追い求めて追い求めて、その結果この世に自由など無い、この世では休めないということを晩年(決定的なキッカケはヴィンディッシュ嬢ね)には悟る。幼い頃からずっともがくように自由を求めていたのは、気づいてはいなくても潜在的にそれを知っていたから。だからトートが見えた。ルドも同じ。

死が傍に居ることはわかってた。いつかは彼と踊ることをわかっていたいや、違うな… "彼と踊らない死"を手に入れることを望んだのかな。支配されることを徹底的に拒むシシィは、死さえも摂理としてではなく「自由」として手に入れたかった。トートが望んでいた形とは違うのよね。

でもさ、ルキーニに刺されるという死は、果たしてシシィにとって望ましいものだったんだろうか?偉そうな奴なら誰でも良かったなんて言う愚民の手に掛かったことは。センセーションを以って人々の口の端にのぼることは彼女が勝ち得たいものだったんだろうか。トート目線では、時代の潮流の中で1人の人間が消えていっただけのことには変わりないんだよね。やっぱりそこには勝てないと思うけどな。それをどうしても認めたくなかったんだねシシィは。

 

そっか、ルキーニは"どうしようもない世の中の潮流"の具現化なのかもな。上山ルキは下衆な大衆っぽさを多めに出していたような気がする。

トートとルキは、"摂理""潮流"ってことになるな。なるほど。

それらから"自由"になりたくてもがき続けたシシィだけど、結局は呑み込まれていったと思う。トートの記憶に一点の陰を残しただけで。

 

あ、いや、もとい

シシィにとって自由を追い求めること即ち生きる意味だった。それをしないなら生きている必要などなかった。生きること=闘い続けること。この世では休めない。

自由を求める闘争には果てが無い(あまりに多くを求めるシシィだからね)し、その過程で彼女はどんどん孤独になっていく(ヴィンディッシュ嬢に気づかされたね)。世の中には闘ってる人があまりに居ないという事実も示していると思う。

だってさ、究極、王は自らを埋めなきゃじゃんね!(cf.『パンドラの鐘』) 人間社会とはある枠組みのことであって、究極的に自由を求めていったらその社会を壊すことになる。壊さねばならない。

シシィが勝ち取りたかったものはたぶん皇室や帝国における自分の存在価値なんだよな。所詮は枠組み内の発想なんだよ。その枠組みが無くなること、そのために王みずからが埋まることなんて思いもよらなかった。

でも、ミルク風呂が民衆の怒りを煽ったりハンガリー王位が民族主義を目覚めさせたり、シシィの行動は結果的に帝国の解体つまり枠組みを壊すことに繋がったと見ることもできるか。ルキーニに殺されたことは"滅びゆく前の日の王の仕事"になったのか?その自覚が彼女にはあったからあのラストなのか?

まるでシシィが嫁いできたことが滅亡の始まりだったかのように表現されているけど、結果的にやっぱりそうで、それはシシィが実現させた自由だってことになるんだろうか。

たとえそうであるにしても、シシィ本人の意志や意図の外でそうなっただけなんだから、むしろ一人間の小ささ・儚さ・力の無さの方が際立つんじゃないかな。結局は潮流の一部だったよね、と。

「非情の相」なんて言葉を今更思い出したりして。

 

ほんといろいろ思考が巡ってしまうけど、観てた時に、シシィの物語と帝国滅亡の物語とが二重映しみたいになっているとものすごく感じたよってことをとにかく忘れないでおきたい。両者がトートで重なり合っていると言うか。

いろんなものがトートの姿として見えてるんだなと言うか。

 

11/6

WOWOWウィーンコンサート版視た。

うわぁ徹底して愚衆批判な視点がすげぇ。

ウィーンのカフェのシーンもそうだけど、キッチュと同時進行背景でシシィがハンガリー民衆の歓迎を受けてるのも強烈だった(本物の馬車で入場してきたの凄かった)し、婚礼の歌詞が世紀末っぽいのがめっちゃ気になった。闇広もそう言えばルドに対して"看過ごす"ことを非難してるんだよなぁって気づいたり。

あと、ルドの葬儀で死を求めたシシィをトートが突き放した理由もなんか納得できた感じがしたり、やっぱルキーニのヤスリはトートからシシィに与えられた救いだったんだねと思ったり。シシィはトートに「扉を開けて」と言って縋ってた。脱いだ黒いマントを抜け殻のように残して、まるでこの世に閉じ込められていたところから助け出してもらって、記憶をすべて消してちょうだいみたいなこと言ったり。やっぱドイツ語がんばって読みたくなるなー!

ほんと、演出のいろいろ微妙な違いで全体の感触がかなり異なるから面白いね。トートが人を操ってる感も高かったと思うよ(これについてはゆんトートが俺様度高くないので余計に差異がw)ゾフィー様に正当性を強く感じられたような気もする。あとシシィの最初のシーンからバートイシュルは3年後なんだねというのが分かったりとか。でもね、イケコやるなぁ〜とも思ったよ。

あ、そう言えばヤスリを渡された後のルキが裁判当時っぽいトーンだった。成河ルキと同系列ね。

私だけにの途中でアンサンブルさんがいっぱい出て来た?と思ったらシシィがマヤさんに代わった!そしてこの曲だけリーヴァイさん自ら指揮してた。しかしマヤさんのデカさとド迫力は見慣れるまでちょっと時間が掛かるわwドクトルがトートだとわかって「お前かーい」みたいにニヤッとしたのウケちゃったしネックレスを引きちぎってトートに投げつけるのもすげぇ。

あ、あとね、どうしても取れないと思ってたママ鏡の拍が取れたんだよ。なぜだ?言葉の乗せ方と関係あるのかな?

 

 

11/7

友達とエリザ談義♪ 白トートの意味って考えたことない視点だったなー!

改めて「死神裁判」を読んだ時のnoteを読み返してみたけどね、ふむふむ、あくまで生=佳きもので、死=苦しみ・悲しみ・忌むべき恐ろしいもの・罰、とされているんだわね。人間は原罪の報いとして死ななければならなくなった。死神の発言から見ても、生は短期間輝くに過ぎないものだから悲惨だ、という考え方なんだな。佳きものが永遠に続かない・終わってしまうことを悲惨だと言ってる。

そうね、中世の人々には、飢えとか病気とか、死は今よりもっと身近だっただろう。現世の苦しみ=死の心配だったんだな。現代の我々は「生きることの苦しみ」とか思うけど、死ぬ心配がそんなに迫ってないから言えることなんだわ。

うん、トートが白くなったのは、トート自身の変化ではなく、私たちから死がどう見えるかの変化なんだ!ん、あるいはシシィが死をどう見るかの変化かも。

そう言えば悪夢でマエストロとして登場するところから白トートなんだよね。まぁあの時点でフランツにとっても現世の生は悪夢だったもんな。

で、死=究極の自由というラスト。

厭世的とも思えるし、もうちょっとポジティブに「死あってこその生」みたいな感じ方をすることもできる。観た人のコンディションによってね。