J’aime le théâtre♡

観劇日記。

『スカーレット・プリンセス』

おっ!花道あるし、鏡に電球のついた楽屋机が舞台下手端に置いてある。上手には楽隊のエリアがある。ワクワク!

 

配信で視た時にこの劇でいちばん好きだと思った"世界"のおっさんが花道から悠々と登場するところから始まってテンション上がった。

運命。青蜥蜴とか赤ちゃんとかキーアイテムをおっさんが運んでくるのね。

 

桜姫白い衣装で登場した時めっちゃ綺麗と思った。その点は歌舞伎を観る時と同様遠目で正解。

いろいろギョッとする見た目だけどだんだん打ち解けてきたねっていう感がある。後半では客席に向かって微笑みかけてくれるお女中のデカいお兄さんたちや名乗りをあげる俳優とかと親しくなれた空気。

お十さんめっちゃデカい!チャーミング!見栄がキマってたよ藁まみれで一輪車で運ばれていくとこはそれこそ忠義という世界の中にいる憐れさ。

                     ラストも大好き。GLORIA MUNDIと書いてあったね。2階から観たから、回る盆がまさに地球みたいに見えたよ。

                      見栄の時にツケの代わりにシャリーンみたいな音を奏でたり、ほら七三でキメなきゃ!みたいなこと言ったり、スッポンが黄泉に落ちる穴みたいだったり、殺陣をダンスみたいにしたり、そっかセグウェイは摺り足だしガサガサする紙?の衣装は衣擦れの印象なのね。歌舞伎風味で遊んでる感じ。

あ、香箱はオルゴール曲みたいのが流れるからそういうイメージで受け取れるね。

 

イギリス人も外国人がシェイクスピアやるのを許してくれるから、皆さんもこれを許してくださいってアフトでプルさん言ってた(フランス語だったね)けど、そういう姿勢で観るのどうなのかなーと思ったよ客席にもなんとなくそういう空気を感じてたから。私の感覚では、どれどれお手並み拝見なんて言うほど歌舞伎は自分のものではない。現代日本人の感覚と直結してはいないと思うの。歌舞伎の表現や手法を面白がったり人物の行動原理に疑問を感じたりするのはルーマニア人と一緒かもしれないよ。

歌舞伎の本がシェイクスピアのように世界中で演出・上演される古典になることを串田さんや勘三郎さんは夢見たみたいだけど、うーんそれはどうなんかなぁ。コンテンツとしては「世界」を背景に焼き直してるんだからさでもそっかそれをも意識せず取っ払ってテキストを読んだ上で演出するってことか。むしろ劇の作り手や観客が持つ背景と結び合わせるようなものにするってことか。

それを「許す」には、その人たちがどのように受け取って何と結び合わせているかというところを知らなければいけないよね。そのようにして相互理解にはもしかしてならないかもしれないけど互いに手を伸ばし合うことにはなるんだな。

 

そう、この作品の誕生には勘三郎さんも大きく関わってらしたと知り、あゝ2020中村屋兄弟の桜姫の翌月にこれを観れてたらかなりアツかったんだなーとまた恨み言を言ってみる。

 

http://web-dorama.jugem.jp/?eid=1026

あはやっぱ成河さん来てたんだ。

着眼点にはめっちゃ頷ける。

 

今日、圭史さんはお見掛けしたんだよねー。

その瞬間、そうだよ遊び方で言ったら阿佐スパ桜姫も負けてないよね!って思ったし、俄然DVDで視返したくなった。そう言えば阿佐スパのパンフでコクーンでの現代翻案のこと言ってたわ。この時勘三郎さんの歌舞伎&現代劇企画だったんだ。

 

そうね、歌舞伎は上演形態ごと身体で継承されてきているから、受け取るものとしてテキスト以外の部分がだいぶ大きくて、今作にも "歌舞伎っぽさ"で遊んでるところは大いにあるから、純粋にテキストからルーマニアの感性で演出しましたというわけではないんじゃない?という気もする。それで言ったらキノカブのほうがよっぽど"エッセンス抽出"になってると思う。

 

確かに、桜姫が自省的だし憐れな感じに見えたね。堕ちてからは只々惨めで可哀想。惚れた権助と一緒にいる幸せ(そういう愚かさ/強さ)みたいなの見えないお布団イチャイチャとかないもんな!江戸独特の性に対する大らかさは感じられないよね。桜姫が「私が奔放だったから」みたいに悔恨を見せるの、キリスト教みをちょっと感じたりもしたなぁ。権助"色悪"に全然見えないのはにざさまじゃないからだけではないよな。すげぇ専制的支配的ってやってることは勿論にざさま権助だって同じなんだけど。観客がうっかり権助に惚れちゃう要素は皆無なのよね。

あゝだからあのラストなんだわ。惚れた男を殺す悲しさは無いんだから。(子を殺すのに逡巡が見られるところは同じだね)

 

あっそうだ…"ノリを手放す"という話だ。

千葉雅也さんの「勉強の哲学」で言われていたこと。

ノリつまり"世界"ですわ。"世界"の外からものを見るということの必要性、難しさ。

MUDLARKSの少年たちのノリとか、体育会系のノリとか、どっぷり浸かってた方が楽しいし幸せなんだよね出て行く、卒業することは苦悩の始まりだったりする。より豊かになってることには違いないんだけど。

私の居る世界、その枠組み、私という枠、怒らずに許せるか、受容できるか

 

うん…MUDLARKSも、やっぱり"出て行けないこと"へのもどかしさや焦燥や怒りなんだよな私いちばんキてるのは。

 

演劇を観るなんてのは自分のノリに疑問を呈することに他ならない訳で、こんな年になってそれやってんのもわりとキツイんではないかと最近思ってきた。

最初は、違う世界を見つけたと思って面白かったけど、ここだってまたひとつのノリ。

ノリを疑うことは演劇が教えてくれたけど、まぁキツイよね。

 

翌日、阿佐スパ桜姫視たぜ!

筋立てに逆らってでも生きてぇ清玄と権助。物語を渇望する吉田。

それこそノリを作っちゃう楽隊。(それこそ "音楽の力")

大久保祥太郎くん演じる入間が舌を噛んで死んだりその後も執拗に物語に出て来ようとするのも印象的だったな。ラストにチラッと出てきて権助を睨む気迫の目つき!

プレトークの映像も入ってて、コクーン南米編の話もしてたし、設定を終戦直後にしたことについて「敗戦すると正しさが全部ひっくり返っちゃうでしょ」「その混沌と南北の奇天烈は合うと思った」と圭史さん言ってた。お馴染みのあの早口な口調で☺️

舞台面に古典籍の文字があるのは、古典の本の上でこの芝居が行われてるという意味になるね確かに!

歌舞伎的ワンダーを取り入れたり、効果音が生音だったり、プルカレーテと発想が似てるとこも多いと思う。圭史さんが香箱に納得いかなくてガラス玉に替えたのとプルさんが起請文をセクシーランジェリーに替えたのはきっと同じような考えでしょ。

原作への眼差しは割と似てると思うよ。そうだよそもそも"世界"を意識している点で共通してるよね。

https://webronza.asahi.com/culture/articles/2020010700007.html

阿佐スパのトークゲストにいらしたという有澤知世さんの記事。面白い!

そっか、世界を下敷きにして趣向を加えたこれはまさしく新作歌舞伎なんだな!

さぁキノカブはどんな趣向で来るか♪