J’aime le théâtre♡

観劇日記。

三月大歌舞伎 第一部『新・三国志』

開幕いたしますのアナウンスから「ん?」てなり、生ではない和楽器ではない音楽とか客電が全部落ちることとかいつもの歌舞伎座と違う。幕の中から聴こえる「お待ちどうさまです」から始まるいつもの感じとは違う。そんなところから、台詞・ホン・演出すべてに渡って体感的にとても"現代劇"だった。


「夢見る力」がテーマだったり、女子どもが蔑ろにされることに非を唱えたり、これは現代の作家が今この時代に上演するものとして書いたホンだ。

しかしそうなってくると、なんだあのみんなで想い人を発表するボーイズクラブ的シーンは?とか、黄忠ジジイ勝手に孫娘を関平ちゃんにあげるとか言うなとか、関平ちゃんが父と劉備(玉蘭)を心の夫婦だと思ってたって複雑な気持ちじゃなかったですか?とか(あ、関平は養子なのかにしてもね)劉備の柔和さや優美さ=女性の性質でそれは男たちが護ってやるものでみたいな価値観が見え隠れして多くの観客にそれが違和感なく受け入れられているのだろうということが気持ち悪いなと思ったり、そんな視点になってきちゃうんだよね。

更にどんどん現代劇として観てると、なんかこんなに説明的に展開していくのダサいなぁ児童劇みたいだなぁとか思えてきちゃったりもする。

顕著なのが、役者の見せ場とか引っ込みで拍手するかどうかが微妙、ってことよね。そういう間を古典作品の上演ほど明らかに取ってないし、拍手するのって大向こうの代替だとすると"役者へ"だからさ、芝居を観る姿勢と役者を見る姿勢の違いとかさ。

そこらへんの鑑賞姿勢がどっちつかずで宙ぶらりんになってちょっと戸惑ってしまった。普通に歌舞伎として観れてればもっと素直に楽しいんだろうなーと思ったり。

猿之助さんと中車さんが関羽張飛で義兄弟だったり團子ちゃんが関平だったり青虎さん襲名に掛けた台詞があったり猿翁さんや初演からの縁(あぁ初演では亀治郎だった猿之助さんが関平をやったのね)を見たり、歌舞伎としてならそういう目線で楽しむこともできるんだけど。


これを歌舞伎で観る意味は?とか考えちゃうじゃん?今日観てて"歌舞伎だからこそ良かった"と思えたのは笑也さんの劉備(強い時)とけんけんの香渓が素敵😍だったことなんだよなー。

まぁ他の武将たちも歌舞伎役者ならではの重厚感ある美しさだったりするのかもしれないし、衣装の華麗さは流石だけどね。いつもの書き割りと違って特に桃園の美術は綺麗だったなー。地図や場所説明ト書きの映像はもうちょっと美術寄りにしてもいいのになぁと思った。

宙乗りもねぇ狐ちゃんみたいな躍動感なくてただヌーッと飛んでっただけだったからな。花吹雪は倍増だったけど。


最初さ、あれ?関羽張飛劉備に敬語じゃないの?劉備を戴いてる感がなくて違和感あるなと思ってたら、そういう翻案だったんだね。元々4時間くらいなのを短縮版にしてるらしいから、フルで観たら展開的にももっと丁寧に見えるかしら。


あ、密かに楽しみにしてた寿猿さんの華佗は外科手術しなかったねー😅曹操の死期を言って殺されちゃうだけだった。


チケットはすごく売れてる浅野和之さんとか扉座の俳優とかも出てるし、三国志だし、ドラマの猿之助さんや香川照之ファンとか、それこそ普段あまり歌舞伎を観ない人も結構観に来てるっぽいね。私もオグリから入ったけどさ、あのワーッ!歌舞伎すげぇ!という衝撃・感動がこの作品にはあるかな?笑也さんとけんけんの女方の素敵さは確かにそれだね。演出がもっとすごくできる筈!(今は制限もあるし仕方ない)と思っちゃうのかな。あ、脚本横内さんはオグリもワンピースもそうだったのか。オグリは元々歌舞伎で演じられてきてる物語の改変だから、その延長線上で、無理なく"現代の歌舞伎"になるんだわ。今回のはどちらかと言うと"歌舞伎の手法を取り入れた現代演劇"なんじゃないかな。友達が新感線ぽいと言ってたけど確かにそうだ。とても微妙なバランスの差異だけどね。

あ、でもこれ面白いね、ここには私がいったい何を"歌舞伎"だと思ってるかが出てるんだわ。