J’aime le théâtre♡

観劇日記。

オンライン講座「つながる古典/現代」

日置貴之×木ノ下裕一Presents「つながる古典/現代」第4回は多田淳之介さんをゲストに「戦争」がテーマ。


日置さんもここらへん専門分野だそうで面白い話をたくさんしてくれた。

幕末〜明治期の歌舞伎は戦争報道メディア(プロパガンダにもなっていく)という側面もあり、戊辰戦争西南戦争・日清・日露あたりを題材にとった作品が上演されていた、しかしその役割は川上音二郎以降現代劇の方が相性が良く、ある意味そこが歌舞伎=古典となっていく分水嶺だったと。

歌舞伎、演劇、アートが戦争を描くことが「有用性」と絡んでいるという話には心底ゾッとしたな。「国家に益なき遊芸」からの脱却、役にたつもの・有益なものであろうとした、って正に昨今「不要不急ではない」と必死で訴えている演劇界・芸術界を思ったり、私自身"観に行く理由"を見つけようとして苦しんでた時期があったことも思い出した。

戊辰・西南はともかく日清戦争以降は敵を思い切り躊躇なく悪として叩くことができるとか、観客が高揚感を覚える(戦争劇の客席の熱狂の話)、そもそも演劇(アート全般かな)って大きな共感を誘っちゃうものですよね、所詮は安全な所から観てるんだし、みんなで一つの方向を向くことはキモチイイ、という話にも肯きどおしだった。

あと、タブーと意識できていることより怖いのはやっぱり"無意識"だというようなことも言っていて確かに!と思ったな。例えば旭日旗を掲げて戦争賛美みたいな物語があったとして現代の観客ならそれをそのままに捉えることはなく反戦の意図を読み取ったりすることができるけれども、昨今よく見掛ける"戦時下での日常"みたいなのって危険だなと思っている、大きな社会情勢と個人とがまったく切り離されたものであるような感覚になってしまう、作り手側にも観る側にもそれがヤバいことであるという意識が無いから危ない、って。凄いわその視点。確かにそうやって知らず知らずのうちに我々は力を削がれていってしまうかもしれない。

戦争劇は観客にとっても中毒性(高揚感・一体感・人の生き死にというドラマチックなものを安全な所から見ていられること)があったし、作り手にも「社会の役に立っている」という気持ち良さは麻薬になった。が、戦争劇に限らず、ドラマチックなものはみんな大好き!って事実よね。私は特に戦争モノが好きってことはないよと思うけど、考えたら人が悩み苦しんでいる様を観るのが好きじゃん。安全な客席で。同じことなんだわ。作り手側にとっても、例えば"現代人の悩み"とか"資本主義の病"とかを表現することで「役に立ちたい」っていうの、きっとあるじゃん。誰かの、あなたの役に立ちたいと芸術家は言うけど、やっぱ興行となれば"多くの人の共感を呼ぶもの"になるわけで、日置さんが言ってたように大箱での商業演劇ほどその性格は強くなる。ミュージカルとか正にグワッと連れてっちゃう/連れてかれちゃう気持ち良さだもんね。

ドラマに呑み込まれることが楽しいっていうのも、劇場中のみんなでワァーッてなるのがたまらんっていうのも、間違いなく演劇の大きな要素ですよ。(コロナ自粛明けに成河さんが、特に今そうなりやすい時だから作り手側は気をつけないといけないって言ってたのを思い出すなー)

それに「自覚的」であること。「無意識」の反対。

無意識、怖いんだよ


多田さんは、戦争を扱った作品を度々やってるけど、戦争という状況下では"人間"がすごく出るしそれを実際に人間の身体でやってみるという演劇ならではの意義にもなるよね、と言ってた。ふむふむ。

当事者性を持たせること、気持ちよくさせないこと(異化効果)…キノカブ渡海屋大物浦を観てるからよく分かる。

『カルメギ』『外地の三人姉妹』など日韓合作の上演の様子は、作り手にも客席にも様々な目線があるべきだと木ノ下さんがこの講座の中でも再三言ってることとも繋がってて。様々な目線を確保することは"危険な無意識を防止することになるんだよね。


あ、古典を現代の視点で捉えること、エッセンスを抽出すること、身勝手な解釈?、の話も面白かったな。「身勝手にしちゃいけないよね」と言った木ノ下さんに「キノカブだってオリンピック反対みたいなのも入れたりして身勝手に解釈してるけどそれが面白いからいいんですよ」と日置さん。そして「作法は必要ですね」ということに落ち着いた。そうだね、そりゃトンデモ解釈みたいなのは嫌だもんね。多田さんがちょっと言ってたけど、タブーにどれくらいの匙加減で斬り込むかとかも作り手のセンスだよね。


そうだ多田さん、アートって社会のために有益なものなんかじゃなくて、社会なんて絶対うまくはいかないんだけどその中でもやってけるのがアート、みたいなこと言ってたな。芸術って役に立つものじゃないんです、役に立つものしか存在しちゃいけないっていうのはおかしいんです、というのは木ノ下さんも日置さんもよく言ってる。


木ノ下さん確か以前にも聴いたと思うけど、『子午線の祀り』観劇後の客席で年配のご婦人が「言葉が美しかったわねぇ」と言ってたことにモヤモヤしたと。

つい昨日WOWOWの録画を視たから新鮮だけど、ラスト床に置かれたあの蝋燭が「今ここにすっくとひとり立っている私自身だ」と思えてしまったほど、過去の歴史の上に私は居るということが突き刺さった。キャストたちが完全扮装ではなく半分現代服なのを見ても、彼らは我々を代表してそのことを語ってくれている同時代の仲間なんだなって改めて思えた。大千穐楽のカテコでの感動も思い出したし。知盛が院宣に憤って戦いへ走っていったのと義経が迷いを捨て戦場を駆けることのみに集中していったのが並べられて描かれてたんだねーということに気づいてアッて思ったりした。たまゆらの者たち。

知盛や義経ら劇中の人々の苦悩・運命、そして私はその上に立っているし、私もまた彼らと同じなのだ星屑のひとかけらなのだ、そんなキューッとした気持ちで劇場を出ようとした時に「綺麗だったわね」で済ませてしまってる人がいたら、まぁムムムと思うわな。

でもこれって例の"歌舞伎だと許せちゃう問題"かなぁと思った。

つまり"分断"なんだよなー。(そうよ、この講座のタイトルは「つながる古典/現代」だったじゃんね!)

古典を観る時、これは今・ここ・私と関係のある繋がっていることではないと無意識に思っている。自分に引き寄せて感じたり考えたりする必要の無いことだと思っている。

そうだな、はなっからこいつは私に殴りかかってくる危険性はないものであると思ってるから気楽に観てるんだよね。

子午線はホンにも演出にも演技にも現代と繋がろうという意図が見えるんだけどだからこのご婦人の感想がホントにこれだけだったとしたらムムムと思うね。でも、群読のリズムが心地良いとか萬斎さんの立姿が美しいというのは確かにそうだから、それが感想のひとつであることには何ら不思議はない。

これさ、私がこまつ座とか『鷗外の怪談』で嫌悪を覚えた感じときっと同じだよな。


古典歌舞伎の場合、演者側に果たして現代と繋げようという意図はどこまであるのか?という疑問。型を継承することとの間ですごく悩むのでは?

歌舞伎の演者と観客の間にある繋がりって、この伝統芸能を共に伝承している仲間であるという意識かも?ってちょっと思った。歌舞伎役者も現代人、私たちと同時代人だからね、古典への視線は同じ筈じゃん?

一見窮屈に思える""って実は最も理に適っていてと成河さんが言ってたのも思い出す。こういう、伝統芸能と現代演劇の相互作用みたいなことが行われるのはとてもエキサイティングだと思う。それこそ「つながる古典/現代」だよね。


あゝこの講座のトップページにある日置さん木ノ下さんのご挨拶を改めて読んだら、そうかこうして私が考えてること自体が「つながる古典/現代」なんだわなーと思った。

>現代人にとっての違和感は、歌舞伎の至るところに存在すると言ってもよいでしょう。それを「これは古典なので」と割り切って楽しむことも可能ですが、逆に違和感を突き詰めていくことや、違和感に満ちた古典を通じて私たちの生きる現代のさまざまな問題を考えていくこともまた、意味のあることなのではないでしょうか。


>昨今、古典演劇の解説や入門書の多くは「現代人でも案外楽しめる」ことや「わかる!」ことに重きが置かれています。また古典作品そのものの価値も「現代人の胸を打つ」や「普遍性がある」という点で測られがちです。つまり「ついてける」ことを是としているわけです。

 しかし、私は、時には「ついてけなくても」いいと思っています。ただ一つ重要なのは、だからといって、なかったことにしないこと。無視しないことです。「ついてけない」部分をバッサリ切り落として「やっぱり古典はようございますね」なんてことは口が裂けてもいってはならないと思います。現代人にとって、古典演劇の中に存在する「ついてけない」は、一種の"異物"です。異物を異物として、あるがままに見つめること。「古典だから」と是とするわけでも、また頭ごなしに非とするわけでもなく、深く考察することこそ大切なのではないでしょうか。そこから、現代に通じる様々な問題に思考を広げてみる。〈古典〉と〈私たちの現在地〉をつなげて考えてみる。古典に触れる醍醐味は、ここにあるような気がするのです。


https://kinoshita-kabuki.org/2016/06/07/4126

あ、うん、殴りかかられる感じ、傷つけられる感じ。

「歴史の集積、戦争の痕跡、災害の傷跡、隣国との関係など、常に私たちの周囲に存在しているはずの逃れようの無いものごとから目を逸らすことで、あえて無知でいることで、時に無かったことにしてしまうことで、インスタントな平静を保とうとする悪い癖がついてしまった日本(わたしたち)に必要なのは、多田さんのような握力なのだ。」



2/18 5回「差別」は、ゲスト松永真純氏による"現代の我々の中にある差別"の話がメインだったから、なんかふーんて感じだった。いや、そうなんだろうけどさー、とは言ってもさー、っていう。

日置さんのレクチャーでは、歌舞伎作品に出てくる穢多・非人階級の例が挙げられたり、江戸時代の芝居関係者の身分(穢多よりちょっと上?)に触れたりして興味深かったけど。

まぁ、第1回からずっと「我々現代人の視点だと歌舞伎など古典を観ていて引っ掛かる時がありますよね」というのを考えてきて、最後に「そもそも"我々現代人の視点"自体どうよ?」と問われた感じかな。確かに、作り手にも客席にもいろんな意識レベルの人がいるからな。

何かを観て快/不快とか疑問とか感じる自分を観測できる、という点では、古典も現代劇も同じなのかもな。(現代劇だってトンチキなのや作り手の価値観だいじょぶ?ってのもあるもんな)

そう、わかりやすい二項対立が見えた時は要注意!って最近考えててさ(雨唄でモヤったとこ)。でも物語ってわりとそうしがちで、特に古いものはそうなんだよなー、とか。

なんかさ、松永氏にはまったく好感持てないじゃん?あの硬い語り口じゃなかなか話聴いてもらえないよね。この人には、そうは言ってもさーっていう部分は分からないんだろうなと思っちゃうもん。みんなに届かせるために、テーブルにのせるために、やっぱエンタメは有効だし、必要だよな。